現在チェンマイに住んでいる人に、住み始めたきっかけやチェンマイの良いところなどをインタビューする企画『チェンマイライフを語りタイ』。
今回は、芸能界からIT業界へと人生を歩み、チェンマイを拠点としてミャンマーやシンガポールなどアジア諸国を飛び回っている市川俊介(いちかわ・しゅんすけ)さんにお話を伺いました。
チェンマイにて貴重な時間をいただいたロングインタビュー。前編後編に分けて公開いたします。
目次
市川俊介さん略歴
1979 | 東京都福生市生まれ |
1985 | 子役として俳優業開始。マグちゃんランドセルのCMでデビュー |
2000-2004 | 成蹊大学文学部国際文化学科(文化人類学専攻) / 大学時代はバックパッカーとして世界数十ヶ国を行脚 |
2000-2006 | 大学在学中、卒業後もタレント活動、舞台俳優、ミュージシャンとして芸能活動を継続、劇団「東京乾電池」所属(舞台)、 TOYOTA CM 等、多数作品に出演 |
2004 | 株式会社西インド会社 タイ料理レストランマーネジャー |
2006 | GMOインターネット株式会社(東証一部)入社、のち、同社にて海外事業部門責任者(ベトナム、シンガポール、タイ、ミャンマー等) |
2015 | タイ・チェンマイへ移住/株式会社ワールドストリート(日本法人) 代表取締役就任(現任)/ポータルサイト運営、海外進出サポート、コンサルティングなど |
2018 | yathar Myanmar Co., Ltd.(ミャンマー)創業・CEO就任(現任)/ミャンマーのグルメプラットフォームとしてリリース |
2020 | yathar Pte. Ltd.(シンガポール) 創業・CEO就任(現任)/本社(持株会社)をシンガポールに設立 オンラインサロン「BORDERLESS」設立、主催(現任) |
【インタビュー前編】波瀾万丈な人生・・・タイに至るまで
Q: タイに来て、何年になりますか?
初めてタイに来たのは学生時代にバックパッカーをやっていた時ですね。
あれは確か2000年ごろ。もう20年以上前ですか。当時大学で文化人類学を学んでいたこともあり、アジア各地を旅して廻っていました。バンコク・カオサンで5バーツのタイ風オムレツぶっかけ飯を食べてバンコクのエネルギーを感じていました(笑)!
実際にチェンマイに暮らし始めたのは2015年、今8年目ですね。
幼い頃から芸能活動・役者とミュージシャンの二刀流
Q: タイ(チェンマイ)に来るまでの経緯を教えてください。
話せば長くなります(笑)。もともと幼少期から子役でCMに出るなど芸能活動をしていました。大学在学中、柄本明さんが主催する劇団東京乾電池の養成所に入所し舞台活動を、別の事務所でも芸能活動をしてCMや映像系の仕事もしていました。
一番印象に残っている仕事はトヨタのファンカーゴという車のCMに、主演としてプリンセス天功さんと一緒に出演した仕事でしょうか。実はこのCMの撮影はバンコクのスタジオとホアヒンでのロケによるものでした。タイとの縁を感じますね。
音楽も好きだったので友達と2人組のアコースティック・デュオを組んでいました。
大学の深夜イベントでオリジナル曲を披露していた時、当時プロデュースする新人を発掘しようと視察に来られていた元ストリート・スライダーズの市川“James”洋二さんに声をかけていただき、音楽活動も開始。
最初は二人組でしたが、相方が就職を機に引退したため、その後はシンガーソングライターとしてソロ活動をしていました。
大学卒業後も芸能活動を続けましたが、芸能界は浮き沈みが激しく、いろいろと模索し続ける日々が続きました。
そんな日々、TBSの「ドリームプレス社」という番組で、坂本九さんの没後20年特集・回想ドラマで主演の「坂本九」役に指名されたことをきっかけに、これを区切りに芸能界から引退しようと心を決めました。
大きな理由の一つは妻でした。20代中頃から生活のために多国籍料理の支店を持つ会社のタイ料理店やインド料理店でアルバイトをするようになっていたのですが、その時に知り合ったのが今の妻です。彼女はタイ人で、グループの別店舗でマネージャーを勤めていました。とても仕事のできる人で尊敬していました。知り合って1年ぐらいした頃、ドラマの仕事が入って来たタイミングで自然と「この人と一緒になるんだったら芸能界やめてもいい」と初めて思えたんです。
「ジョン・レノンが今生きていたら」〜IT業界へ
芸能界を辞め、アルバイトしていた会社に採用していただいき、1年半ほど神保町のタイ料理店でマネージャーを務めていました。そのまま飲食業界に入る道もあったのですが、妻からもらったこの一言が大きく人生を変えてくれました。
「あなたはここで終わる人じゃない」
一体何をしよう?と考える中、子供の頃から憧れていたジョンレノンのことを想像しました。
「今もしジョン・レノンが生きていたら何をしていただろう?」
自分は音楽でジョン・レノンにはなれなかったけれど、まだ世界に社会的インパクトを与えることはできる。当時黎明期だったIT業界でビジネスを学ぶことでもう一度夢を追いかけようと決心したのです。
まったくインターネットのこともわからなかったのですが、奇跡的にGMOインターネットに中途採用されました。その頃(2008年)のGMOは今ほど大きくなる前で、面接を重ねる中、経歴や面接での受け応えから「なんだか変わった奴がいる」と気に留めてくださり、当時の部長の方が拾ってくださいました。今から考えると考えられないことだな、と思います。
何もわからぬままとりあえずカスタマーサポート業務を担当したものの、最初は全く知識がないのでお客さんから恫喝されまくり…「死ね!」なんて酷い言葉も何度言われたかわからないぐらいです(苦笑)
でもその悔しさがバネとなり、睡眠時間を削って必死に勉強しました。初年度は平均睡眠時間3時間ぐらいだったと思います。その甲斐あって、なんとかまともに仕事ができるようになり、また多くの方の支えがあって、カスタマーサポート部門ではアシスタントマネージャーとして働くまでに至ることができました。
そして2012年、GMOインターネット本体が初めて本格的に海外事業をスタートしようというタイミングで、バックパッカーの経験と、これまでの実績、言語能力やコミュニケーション能力を評価いただき、担当役員の目にとまり、事業本部海外チームの責任者として抜擢いただきました。
その後、ベトナム・ミャンマーで現地パートナー企業と共に現地法人を立ち上げ、事業を推進しました。
2011年に息子が産まれましたが、海外を飛び回る日々になかなか子育てを手伝うこともできず、またタイ人である妻が日本で子育てすることにストレスも抱えていました。また、ずっと胸に抱えていた独立の思いも重なり、このタイミングで、完全独立をするとともに海外移住しようと決めました。
妻とも深く相談し、「一番住みたいところ」を二人で考えた結果、二人とも完全一致で「チェンマイ」でした。僕は大学時代に訪れた時にチェンマイの豊かな自然と落ち着いた空気感、アーティスティックな文化、全てに好印象を持っていましたし、妻の兄がチェンマイに住んでおり、チェンマイの住み心地の良さもよく聞かされていました。
そんな経緯から、2015年、完全独立を果たし、チェンマイを拠点に新たな人生をスタートしました。
起業した会社「yathar」公式サイト | https://yathar.com/ |
オンラインサロン「BORDERLESS」 | https://ichikawa.world/ |
市川俊介・個人ツイッター | https://twitter.com/Syun_NoBorder |
チェンマイで活躍する日本人を、当サイトは応援します!
現在チェンマイに住んでいる人に、住み始めたきっかけやチェンマイの良いところなどをインタビューする企画『チェンマイライフを語りタイ』。
「この人を取り上げて欲しい」「私もぜひ語りたい」自薦他薦、随時受付中です!