インタビュー

プロサッカー選手・小野悠斗さん独占インタビュー

来る2023年4月26日(水)にチェンマイにて行われるサッカー交流会にご参加いただくチェンマイ・ユナイテッド所属・小野悠斗選手の独占インタビューをお届けします!(2023年3月1日取材)

交流会の参加申込は2023年4月24日(月)まで(参加者多数の場合は打切り)

自己紹介

 神奈川県横須賀市出身。現在31歳、ポジションはミッドフィルダーです。2010年にメキシコでプロサッカー選手としてのキャリアがスタートし、2015年からは日本のJ2FC岐阜に所属していました。2020年からタイに来まして、サムットプラカンシティFCに所属し、バンコクで生活をしていました。2022年6月終わりからチェンマイ・ユナイテッドに所属しています。

チェンマイ生活はいかがですか?

 チェンマイは小さくてまとまっている街。自然も多く、過ごしやすい印象です。家族で暮らすにも、日本語が通じる病院があるし、日本食材を売っているスーパーもあるし、不自由なく生活できています。

タイでサッカーはどうですか?

 国によってスポーツは文化的なものが出てきます。サッカーに対する人々の思いが違います。タイはサッカーそのものへの思いはあると思いますが、南米など歴史の長い国々と比較するとチームへの思いはそこまで強くはないものの、タイ人の方々はイングランドのプレミアリーグなどは見ているので、サッカーはとても好きなんだとは思います。

 タイ人選手ですが、良い意味でも悪い意味でも「気にしない」ですね。それがいいことでもあるし、悪いことでもあります。サッカー以外のタイの文化的なところでも同じ傾向があると思います。逆に日本でプレーしている時には、僕は悪いところを気にしすぎてしまう傾向がありました。メキシコの時は若かったこともあり、パワーもあって、色々なことを気にしてはいたけれどそれを跳ね除けるパワーがあった気がします。

 いろいろな国でプレーして、31歳にしてやっと今それがコントロールできるようになってきた気がします。ただ、この経験をもっと早くして、20,21歳ごろ10年前にできていたら、もっと違ったキャリアだったかなと考えることもあります。

チェンマイ・ユナイテッドはどんなチーム?

 チェンマイ・ユナイテッドは、2017年に立ち上げられて、そこから3年でタイプレミアリーグ1部まで昇格したものの、昨年降格して今は2部。そうしたまだ歴史の浅いチームなので、いろいろな部分でのびしろはとてもあるのですが、クラブとしての基盤はまだこれから、というところだと思います。同じチェンマイにある「チェンマイFC」は伝統あるクラブで、地元の方々や欧米人のサポーターも多く、ちょっと羨ましいです(笑)

 ホームスタジアムは700年記念競技場で、収容人数も最大15,000人以上なため、まだサポーターがそれほど多くないためスタンドが寂しい印象です。もっともっとチームのサポーターを増やしたいです!

どうして18歳でメキシコに行こうと思ったんですか?

 弟は現在サガン鳥栖でプレーしているのですが、弟とは幼い頃からよく海外のサッカーを見ていて、海外への憧れがありました。

 10代の頃は横浜Fマリノスの下部組織に所属していたのですが、高校生の時にトップチームに上がれないということがわかり、J2や大学からオファーはあったのですが、Fマリノスに上がれないなら海外に挑戦したいという思いがありました。その中で縁あってメキシコに行くことになりました。

 もし僕が英語ができれば、オランダのチームと契約する可能性がありました。オランダ1部リーグは外国人の最低年俸が決まっていて、さすがに高卒ルーキーには届かない額でした。ですから当初学生ビザでプレーし、活躍すれば正式オファーに切り替えるという形にする方向で進めていましたが・・・見事に英語のテストで落ちました(笑)残念でしたが、それがあったおかげでメキシコにも行けました。

出典元:小野悠斗選手を訪ねてネカクサへ 〜2010/10/13(水)編〜 ルーキー時代・メキシコにて

 メキシコでは、たくさんの人たちとの出会いがありました。そして、いい意味で自分の日本で18年間住んでいた価値観を壊すことができたので、よかったです。以前自分は人とあまり喋る方ではなく、社交的でもなく、けっこうネガティブな性格でした。また、Fマリノスでいわゆるエリート街道に近いところにいたため、すごく勘違いしていました。メキシコ人は友達や家族を大事にする人々で、彼らと共にクラス中で、「人を大事にする」ことを学びました。サッカー以前の問題ですが、それが人として一番大事なことを学ばせてもらいました。

メキシコでの活躍の様子

岐阜時代・天才ラモス監督との思い出

 岐阜に所属した経緯ですが、23歳の頃やはりヨーロッパでプレイしたかったため、メキシコのシーズンを終えた時に一度ヨーロッパにチャレンジしていました。スペインではうまくいかず、ポーランドでは決まりかけたのですが、その際にJリーグから練習参加という形でオファーをもらいました。FC岐阜からもオファーがあり、このタイミングで日本に挑戦するのもアリかな?と思い、当時の監督のラモスさんにも気に入ってもらい、FC岐阜に加入することになりました。

 僕の中ではどこに行っても「挑戦」です。ヨーロッパ志向は依然としてありましたが、日本で活躍してから再度ヨーロッパに挑む気持ちでした。

 ラモス監督は、一言で表すと「天才」ですね。彼が考えていることはなかなかできないです。特に「個人戦術」となると、とても敵いません。当時60歳ぐらいだったと思いますが、たまにミニゲームに入ると一番うまくて、本当に天才です・・・。相手が来た時のボールの置き方など、その技術を言語化して伝えるのは難しいもので、それを補佐できる人も不足していました。

 個人的には壁にぶつかった時期ですね。ラモス監督は本当にサッカーに熱いし、期待している選手ほど怒るんですよ。僕、めちゃくちゃ怒られましたが(笑)残念ながらそれには応えられませんでした。

恩師・大木武監督との思い出

出典元:「闇鍋期間を設ける」またも名言が飛び出した大木武監督、キックオフカンファレンスでも大木節を披露【2018 Jリーグキックオフカンファレンス/トーキョーワッショイ!J+】 

2年半ラモス監督の元でプレーし、半年間他の監督を経て、大木監督が就任しました。FC岐阜の3年目のシーズンは大木監督体制の始まりでした。

 もともといろいろな選手からもボールを大事にするサッカーを志向する監督さんだと聞いていました。けっこう頑固なおじさんだとも聞いていました(笑)。

 当初は就任してから開幕まで時間がなく、主力組に集中的に戦術を叩き込むやり方を取られていました。僕はその時にはまだベンチぐらいの選手だったのですが、大木監督のサッカーにはすぐ馴染みました。とにかく練習からとても楽しく、本当にサッカーをしている、という喜びを感じていました。大木監督はボールを大事にするサッカーなのですが、そのために練習から工夫をしてくれて、毎日グラウンドに向かうのが楽しみになりました。スタメンでもベンチでもどちらでも楽しく臨むことができるようになりました。するとあっという間にスタメンに定着しました。

今やスコットランドの強豪セルティックのエースとなった古橋京悟選手(右)と、FC岐阜時代にはチームメイト。

 大木監督体制の1年目は、今やセルティックの主力となった古橋亨梧選手などもいて、楽しく過ごすことができました。ただ、いいサッカーでボールは支配できるのですが、得点を取れなかったり失点が多かったりと、なかなか順位に結びつきませんでした。

 2年目になると、選手の引き抜きが多く、チームとしては苦労していました。僕はそこでキャプテンを任されたのですが、人生で初めてのキャプテンだったこともあり、大きくプレッシャーと抱え込んで空回りしてしまっていました。前半戦はよく出ていたのですが、後半戦は怪我などもあり、スタメンから外れました。3年目にはベンチ外からのスタートでしたが、前半戦のうちにスタメンに復帰できました。ただ、チームは結果が出ず、大木監督は解任となってしまいました。

 ですから、大木監督にはベンチ外・ベンチ・スタメン・キャプテンと全部味わわせてもらって(笑)でも全く嫌な思いはなく、むしろサッカーの楽しさを再び味わわせてもらって感謝しかありません。あの人がいなければ、今ここまでサッカーを続けていなかったと思います。今でも練習中に大木監督の言葉を思い出したりしています。

タイに来るきっかけ

 28歳で岐阜を契約満了になりましたが、前年から現実が見えてきて、やはりヨーロッパでやるには20代初めの若い頃までがチャンスであって、ではどうやってキャリアを終えるかということを考えるようになってきました。世界を見てきた経験から、選択肢の視野は広くなっており、東南アジアのサッカーが伸びてきていることに注目しました。サッカーのレベルも経済的にも上がってきている中、いろいろな人に会って間近で成長を見ることができると、今後の人生の糧になるのではないかと思い、タイに挑戦しました。

まさか!?契約直後にチームが消滅!!

 大正時代からバンコクにある「アーミーユナイテッド」というチームと契約することになりました。チームのアルゼンチン人監督に、僕もメキシコにいてスペイン語が話せるので、直接お会いしてご挨拶もしていました。しかしその翌朝、「アーミーユナイテッド、リーグ撤退」というニュースが飛び込んできました。寝耳に水とはこのことで、チームの監督も選手も全く知らされておらず、皆一斉に職を失ってしまったのです。[当時の記事(英語)]

生きたメキシコ道場破りの経験!

 当然僕も契約はなくなりました。ここでどうしたかと言いますと、実は18歳の時にメキシコに渡った時も、別にオファーがあったわけではなく道場破り的に自分から乗り込んでいって契約を勝ち取っていました。ですから、タイでも同じことをやりました。

 しかし、タイのチームは契約をするまでにけっこう猶予期間を置く傾向があり、「あともう1、2週間だけ伸ばして・・・」ということが多かったです。でも僕はそれが嫌いで、断ってきました。結局その年末には日本に戻ってきて、新年を迎えました。「2月になるまで引き延ばしていたら引退かな・・・」と頭によぎったまさに1月5日、FC岐阜の強化部から「タイのサムットプラカーンFCが獲得したいと言っている」と連絡がありました。サムットプラカーンFCに当時おられた石井正忠監督からのオファーでした。石井監督とは日本でFC岐阜時代に大宮アルディージャの監督として二度対戦したことがあり、一試合で僕がアシストして勝っているんですね。その印象が強かったようです。ちょうど左利きのボランチを探していて、白羽の矢が立ったのです。石井監督とは2年半、一緒に仕事をしました。

石井正忠監督の影響

サムットプラカンFC入団時、小野悠斗選手(左)・石井正忠監督(右)

 石井監督はとにかく人間性が素晴らしく、それが滲み出ている人です。初めての海外での監督就任であり、タイ人は結構特殊な国民性もあるので難しいのではないかと思ったのですが、石井監督はしっかり選手に向き合っていました。監督がサムットプラカーンからタイの強豪チームであるブリラムに行くことになった時に、タイ人選手が皆泣いたほど、選手の気持ちを掴んでいました。スタメンの選手が泣くのは(使ってもらっていた監督だから)わかりますが、なんとベンチ・ベンチ外の選手も皆石井監督が行ってしまうのが悲しくて泣いていたのです。間近で見ていてサッカーへの熱量の高さには影響を感じました。石井監督のその熱量に引き上げられて、まだサッカーをしたいと思えました。

僕にとって大木監督と石井監督、この二人との出会いは宝物です。

小野家のサッカー事情

 実はうちはもともと特にサッカーとは関係のない大工の家系です。父は野球好きだったのですが、ただ、父は高校の時にはサッカー部を作り、3年間だけサッカーをやっていました。その後僕たち兄弟が小学校の時にサッカー少年団に入ると決めた時にはコーチとして手伝うようになりました。父はそこで再びサッカー熱が高まり、今でも地元の少年団に教えています。母は看護婦で、スポーツには縁がないので、小野家は別にサッカー家系でも何でもないですね。兄弟二人ともサッカー選手になったので、父は「大工を継ぐ奴がいない」と嘆いていました(笑)。

弟・小野裕二選手との関係

小野 裕二(おの ゆうじ、1992年12月22日 - )は、神奈川県横須賀市出身のプロサッカー選手Jリーグサガン鳥栖所属。ポジションはミッドフィールダー。同じくプロサッカー選手の小野悠斗は兄。

 裕二とは、10代の頃は全くしゃべりませんでした。一番近くにいるライバルだったので、常にピリピリしていましたね…。大人になってもそこまでしゃべることはなかったのですが、弟の方が先に子供が生まれ、その姪っ子を僕が可愛がりたいので、徐々にしゃべるようになりました(笑)それと同時に、僕たちで地元に恩返しをしたいね、という話になり、3、4年前から「ONO Football Clinic」を二人で開催しています。

横須賀で開催中の「ONO Football Clinic」とは

Ono Football Clinicは、「横須賀から世界へ」を合言葉に、小野悠斗・小野裕二のプロサッカー選手兄弟が中心となり、2019年から、2人のシーズンオフの時期である年始に開催されている。

 僕たち兄弟は幼い頃サッカー選手に触れ合う機会がほとんどありませんでした。あったとしても、一人の選手に100人以上の子供という感じで、しゃべることもできませんでした。

 地元の横須賀には幸い元プロのサッカー選手も多く、彼らを巻き込んで、横須賀の子供達にこれから世界に羽ばたいて欲しいという思いを込めて始めたプロジェクトです。僕たち兄弟に賛同・協賛していただける企業のサポートのおかげで、横須賀の子供達が無料で参加してもらっています。

 僕たち兄弟がプロ選手になれたのは自分たちの力だけではなく街のおかげです。二人とも地元の少年団に入っていましたが、サッカースクールに通ったことがありませんでした。どうしてサッカーが上達したかといいますと、放課後小学校のグラウンドに地元のちょっとヤンチャなお兄さんたちがやってきて、サッカー対決をして勝った方がグラウンドを使えるいう勝負を挑んできたのです。そして、僕たち勝っちゃうんですよ!(笑)そしてお兄さんたちも負けても毎日挑んできてくれる、そうした良い街の雰囲気があったので、プロサッカー選手になれたんだと思います。

(まさに道場破りですね)

そうですね(笑)そういう街の雰囲気・環境が横須賀にはあります。横須賀出身の人たちは皆地元が大好きです。僕たちも地元に恩返しがしたいですし、しかも辞めてからではなく、プロ現役の時からやらないと子供達から見ても魅力がないですし、今の良い時期の自分たちを子供達にも見て欲しいと思っています。

チェンマイでそうした活動はされるご予定は?

 僕自身はそうした活動は好きですし、やりたいという思いがあります。シーズンオフの方がサッカー以外のいろいろな用事が増えるので、ちょっとスケジュール的には厳しいかもしれませんが、シーズン中にできたらと思っています。もしかしたら、盛大にではないですけど、開催の2週ぐらい前にパパッと決めて、来れる方は来てねという感じで呼びかけて、チェンマイFCにも日本人の平山勇太選手もいるので、彼も巻き込んで2人でやれたら、と思います。

小野悠斗選手の独占インタビュー!弟・小野裕二選手のこと、兄弟で取り組む地元横須賀での活動、チェンマイでの交流事業への想いを語っていただきました。

チェンマイで交流イベントが実現!

まさに動画で語られたことが実現に!有言実行の男・小野悠斗

サッカー選手になるには?

 今はサッカースクールが五万とありますが、そこに通ったからといってプロ選手になれるわけではありません。その子の持っている素質もそうですが、良い指導者に出逢わないと難しいと思います。

 ちなみに僕が高校生の時の指導者は、今はアルビレックス新潟の監督・松橋力蔵さんです。松橋監督は本当に天才プレイヤーで、今も新潟はチームとして面白いサッカーをしています。松橋さんは指導がとても上手いのもありますが、やはり人間性が素晴らしかったです。

サッカー以外の趣味は?

 何といってもおしゃれなカフェに行ってコーヒーを呑むことです。バンコクの時からカフェ巡りはしていたのですが、チェンマイがタイで一番だと知っていたので、旅行で来たいと思っていたのですが、住めるようになっちゃったので(笑)時間さえあればカフェを探しています。

小野選手オススメカフェ5選

WEBで見る小野悠斗選手

小野選手は様々なウェブ媒体で情報発信をしています。

小野悠斗選手のその他の活動

スポーツ選手の価値向上をサポートするDescratch社の協力のもと、自らがこだわりデザインに関わったTシャツを販売中!

小野悠斗選手・DATA BASE

プロフィール

  • 小野悠斗(おのゆうと)
  • 1991年9月26日 (31歳)
  • 神奈川県横須賀市出身 170cm 65kg 利き足:左

メキシコでのキャリア

日本でのキャリア

  • 2015-2019年 FC岐阜 99 試合 5 ゴール 6 アシスト

タイでのキャリア

現役引退

2023年7月23日 現役引退を表明

またいつか、チェンマイを訪れてくれることを祈ります。

そして、小野悠斗さんの新たな人生のステップを見守り、応援していきたいと思います。

Vamos, Yuto!!

チェンマイの小野悠斗ファン一同

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