チェンマイには、タイ・リーグ2部にあたるT2リーグに所属するサッカークラブ「チェンマイ・ユナイテッド」があります。
2024-2025シーズンを戦う選手として、なんと元Jリーガーの日本人選手・新里亮(しんざと・りょう)さんが移籍してきました!
新里選手はジュビロ磐田など、数々のJリーグクラブに所属し、活躍されてきました。今回、初めてのチェンマイでのインタビューを実施いたしました。
目次
基本情報
氏名 | 新里 亮(しんざと りょう) |
生年月日 | 1990年7月2日(34歳:インタビュー時) |
出身地 | 愛知県岡崎市 |
身長 | 184cm |
体重 | 73kg |
ポジション | DF(主にセンターバック) |
趣味 | ゴルフ |
チェンマイ・ユナイテッドについて
チェンマイ・ユナイテッドFCは、2015年に設立されたプロサッカークラブです。タイのチェンマイ県をホームタウンとし、愛称は「The White Elephants(白象)」です。
チームは、2016年にフットボール・ディビジョン3北部地区で優勝し、2017年には「JLチエンマイ・ユナイテッド」に改名しました。その後、2020年に現在の「チェンマイ・ユナイテッド」に改名し、タイ・リーグ2で2位となり、タイ・リーグ1への昇格を果たしました。
現在チェンマイ・ユナイテッドはタイ・リーグ2に所属しています。最近の成績では、リーグで9位に位置しています。
ホーム・スタジアム「700周年記念スタジアム」
1995年に開催された東南アジア競技大会に向けて建設されたスタジアムです。
1996年にチェンマイが「ラーンナータイ王国」の首都としてチェンラーイから遷都して700周年を迎えた際に、「700周年記念スタジアム」と命名されました。
収容人数は25,000人。サッカー以外にも陸上競技などが行える、多目的競技場です。
チェンマイ市街地からは車で20分程度の距離。会場周辺は駐車場スペースが多いですが、試合直前は混雑することがあります。
チケットはメインスタンドの右横に当日券が販売されています。
また、2024年8月1日に、チームのFacebookページで年間チケットの販売についてのアナウンスがありました!
8/10までに公式LINEで申し込み、支払いを済ませると、8/17(土)のホーム開幕戦でもらえるとのこと(タイ国内のみ購入可能)。
筆者も購入いたしました。今後の日程等は以下よりご確認ください。
試合日程(随時更新)
節 | 日付 | 対戦相手 | スタジアム | 結果・備考 |
1 | 8/10(土)18:00 | プレー・ユナイテッド | ホゥアイマー スタジアム | 🇯🇵H1-1A |
2 | 8/17(土)19:00 | バンコクFC | 700周年記念スタジアム | 🇯🇵HOME |
3 | 8/25(日)18:30 | Mahasarakham SBT F.C. | マハーサーラカーム スタジアム | AWAY |
4 | 9/1(日)18:00 | チョンブリーFC | 700周年記念スタジアム | HOME |
5 | 9/15(日)18:30 | Sisaket United F.C. | シーナコン ラムドゥアン スタジアム | AWAY |
6 | 9/22(日)19:00 | チャイナートFC | 700周年記念スタジアム | HOME |
7 | 9/29(日)18:00 | トラートFC | トラート スタジアム | AWAY |
8 | 10/5(日)19:00 | ポリス・テロFC | 700周年記念スタジアム | HOME |
9 | 10/19(土)18:30 | ナコーンシー・ユナイテッドFC | ナコンシータンマラート スタジアム | AWAY |
10 | 10/25(金)19:00 | カセサートFC | 700周年記念スタジアム | HOME |
11 | 11/3(日)18:30 | チャンタブリーFC | チャンホステル スタジアム | AWAY |
12 | 11/9(土)18:30 | スパンブリーFC | 700周年記念スタジアム | HOME |
13 | 11/24(日)18:30 | カンチャナブリ パワー フットボール クラブ | カンチャナブリー スポーツ スタジアム | AWAY |
14 | 12/1(日)18:00 | サムットプラーカーン・シティFC | 700周年記念スタジアム | HOME |
15 | 12/7(土)19:00 | アユタヤ・ユナイテッドFC | アユタヤ スタジアム | AWAY |
16 | 12/14(土)18:30 | パタヤ・ユナイテッドFC | 700周年記念スタジアム | HOME |
17 | 12/22(日)19:00 | ラムパーンFC | 700周年記念スタジアム | HOME |
※以降の日程については、発表があり次第更新いたします。
日本人対決が実現!
🇯🇵プレー・ユナイテッド (第1節:アウェイ戦)
清水龍秀選手(1996年生まれ:大和南高校、フットワーククラブ、ブラジル、 エスペランサSC、クロアチア、品川CC、タイ)
🇯🇵バンコクFC(第2節:ホーム戦)
小島聖矢選手(1989年生まれ :栃木県出身、MF。流通経大卒業後、2012年からタイでプレイ)。弟の小島秀仁もプロサッカー選手。(ジェフユナイテッド市原・千葉所属)
大久保剛志選手(1986年生まれ:宮城県出身、FWからDFまでこなす。ベガルタ仙台、モンテディオ山形を経て2014年からタイでプレイ。)
取材協力:Teppan Kotetsu 虎鉄 鉄板魂
以前「ぐでんぐでん」の名前で知られたお店が、鉄板焼きのお店「Teppan Kotetsu 虎鉄 鉄板魂」に生まれ変わりました!
- 公式Instagram : https://www.instagram.com/teppan_kotetsu/
- Facebookページ: https://www.facebook.com/kotetsuinchiangmai
- 公式TikTok : https://www.tiktok.com/@kotetsu952
今回、新里亮選手のインタビューにあたり、場所を提供いただきました。また、シーズンでの活躍を祈って、料理も振る舞っていただきました!
プロサッカー選手にとって食事は大切なもの。
数あるメニューの中から新里選手は、タンパク質を摂るために「焼肉」を、炭水化物を摂るために「お好み焼き・豚玉」を選びました!
独占インタビュー
インタビューは、2024年7月16日(火)に行われました。それに先立ち、X(旧Twitter)にて質問を募集いたしました。
事前にXで募集した質問・その1
チェンマイにはいつ来られましたか?
2024年6月25日の夜にチェンマイに到着しました。その後、1〜2日後にメディカルチェックを受けて、7月1日からチームと合流しました。
なぜチェンマイ・ユナイテッドに移籍を決めたのですか?
数年前から、何か自分の中で、 何かこうもやもやしたものを感じながらプレーしていて、何か環境を大きく変えて、日本以外の文化や価値観の中で自分のサッカーをやってみたいっていう気持ちが、昨シーズン終わった時にすごい大きくなってきてきました。そこで、代理人と話し合いながらチームを探していました。その結果、環境やいろんなものを踏まえた上で、タイ・チェンマイという選択になりました。
タイに来たことはありましたか?
いや、タイ自体が初めてです。知り合いやタイ国内で仕事をしている人に、チェンマイはすごく穏やかで住みやすい街だということは聞いていましたが、その通り本当に人も温かい優しい人が多いですし、街の雰囲気も日本に比べるとすごくゆっくり流れてるような感じがして、過ごしやすさを感じながら生活しています。
チェンマイで美味しいものについては、取材に先立ち打ち合わせも兼ねて、有名な北タイ料理「カオソーイ」の名店「Khao Soi Lamduan Faham (カオソーイ ラムドゥアン)」にご案内しました。
カオソーイとは?:https://oriental-cnx.com/khaosoi-chiangmai/
取材協力をいただいた「Teppen Kotetsu 虎鉄 鉄板魂」をはじめとして、多くの和食レストランがチェンマイにはありますので、きっと新里選手もお気に入りのお店が増えることでしょう☺️
事前にXで募集した質問・その2
練習環境について
チームによって環境の差はあるでしょうし、僕はタイのこのチームしか知らないですが、このチームに関してはJリーグで僕が今まで所属していたクラブの環境と比べると、かなり差はあるかなと思います。しかしそれは別に全くネガティブでもなく 、ある程度理解した上で来ていますし、ハングリーな気持ちにもさせてもらえてます。
タイ人の選手について
まだ練習試合1回ぐらいかしておらず、顔と名前を一致させるどころか、タイ人の選手の名前も覚えるの難しい現状です。
Jリーグではチャナティップ選手と、ティーラトン選手とは対戦しました。ティーラトン選手はサイドバックなのであまりマッチアップする機会も少なかたですが、チャナティップ選手はマッチアップする機会がすごく多く、それまで持ってたタイ人選手のイメージを大きく変えました。ものすごくクオリティが高いですしすごく勤勉な選手です。Jリーグにもうまく順応していたし・・・。
知らないだけで、タイにはそういう選手がたくさんいるんだろうなと思いました。
生い立ち
生まれ故郷・岡崎市はどんなところですか?
大きい市なんですけど田舎です(笑)。学生時代住んでただけなのであまり多くは知らないですが。帰った時もいつも行くところが決まっているので、今でもあまり知りません。
ご両親は岡崎市出身ですか?
父親は沖縄出身で、母親は母親は愛知県ですけど、岡崎市ではなく名古屋市出身です。父親の姓・新里は沖縄には多いです。
小さい時は、どんな子供でしたか?
生意気だったと思います。二つ上に兄がいますが、兄と対等だと思って過ごしていて、その兄の友達たちについて遊んでたので、年上にもだいぶ生意気な態度をとってました。けれども優しく遊んでもらってました。4〜5歳ぐらいまで野球選手になりたいとかサッカー選手になりたいとか言ってたようですが、5〜6歳・小学生に上がる直前ぐらいで「サッカー一筋」。サッカーばっかりやってたような覚えがあります。
DFはいつからやっていましたか?
センターバックやり始めたのは高校2年ぐらいだと思います。小学校の時は本当にどこのポジションもやってましたし、そこからは攻撃的なポジションが多かったですけど、高校2年のセンターバックになってからは、ずっとセンターバックです。
なぜセンターバックになったのでしょう?
センターバックをやるやつがあんまりいなかったっていうのもありますし、僕も中盤をそれまでやってましたけど、どちらかというと守備が苦手な中盤選手だったので、監督にはどういう意図かは聞いたことないですが、ポジションチェンジでセンターバックをやるようになりました。
いつから背が高かったのですか?
もうずっと高かったです。どの世代でもほとんど一番大きい感じでした。
プロサッカー選手になるまで
東海・北信越選抜で正確なキックを武器とする新里
好きな選手・影響を受けた選手はいますか?
特別ずっとこの選手を見て憧れてたというのはあまりないのですが、小学生の時に部屋に貼ってたポスターは中田英寿さんと名波浩さんの2枚です。2人がセリエAに行った時でした。
プロになった経緯を教えてください。
僕自身、高校・大学とそんなに有名な選手でもなく、全国的な大会で活躍してきたわけでもないのですが、心のどこかに「プロサッカー選手になりたい」という思いが残ったままでした。だんだん現実を見るようになって、もう大学4年の時にはサッカーを辞めて一般企業に就職すると決めて、内定もある状態でした。しかし大学4年の9〜10月ぐらい、会社の内定式の時に一般企業で働く未来がイメージできずに、「やっぱりサッカーがやりたいな」と思って大学の監督たちに伝えました。
それがきっかけで大学2年3年の時に中京大学の監督だった西ケ谷さんが練習場に来た時に「やりたいんだったらちょっと話をするから、一回練習に行ってみろ」みたいなことを言ってくれて、その時に水戸ホーリーホックの監督だった柱谷哲二さんにシーズンが終わった後の川崎フロンターレとの練習試合に45分出させてもらって、それで運良く起用してもらったということです。
当時のネット記事
水戸が中京大DF新里の加入内定を発表 https://web.gekisaka.jp/news/detail/?109945-112728-fl
サッカー部の2選手がJリーグと契約
中村亮太選手が松本山雅FC、新里亮選手は水戸ホーリーホック https://www.chukyo-u.ac.jp/news/2013/01/005930.html
2013-2015 水戸ホーリーホック時代
柱谷哲二さんの影響は大きかったですか?
大きかったと思いますね、本当に。まず名も知らぬ大学生を取ってくれることが大きいですし、その後開幕戦からスタメンで使ってもらったんですけど、本当に全くプロで通用するような体でも技術でも頭でもなかった僕を使ってくれたのは本当にテツさんだし、それでプロとしての心の持ち方というか、プロとしての生き方みたいなのを 一番教えてもらったかなと思います。
水戸ホーリーホックのサポーターとの交流について教えてください。
僕がいた時は今よりもまだ小さい規模でしたが、すごく地域に密着したクラブでしたし、サポーターとの交流はすごく頻繁にあったし、すごく近い距離で交流があったチームだったと思います。在籍していたのは10年前ですけど、まだ覚えてくれてるのが嬉しいですね。
2016-2017 ヴァンフォーレ甲府時代
当時のネット記事
新里 亮選手 水戸ホーリーホックより完全移籍加入のお知らせ https://www.ventforet.jp/news/press_release/510502
ヴァンフォーレ甲府に移籍したきっかけはなんですか?
水戸で本当に多くの試合に出させてもらって、プロでの試合の経験というのがかなり積んだ中で、何チームかオファーをもらっていたんですけど、その中でJ1のチーム・特に初めてのJ1なので一番試合に出てプレーできる可能性が高いと思った甲府を選択しました。
甲府のレジェンド・山本英臣の存在
また、僕が本当に仲良くさせてもらっている先輩が所属してたこともありました。今でもまだプレー続けているんですけど山本英臣(やまもと・ひでおみ)さんという甲府のレジェンドとプレイすることで、何か得られるものがあるんじゃないかと思いました。周りのアドバイスもあり、自分なりのプランもあり、甲府に移籍を決めました。
実際にプレイしてみて、J2とJ1の違いはどうでしたか?
もちろんアタッカーのクオリティはかなり高くなりますし、特に外国人や助っ人にすごくお金をかけていて。やはりJ1のチームは補強するので多くの外国人選手がいますし、日本人でも代表クラスの選手が当時はいたので、その対応というのはJ2とは違いました。
対相手もそうですけど、その当時の甲府はやっぱり残留、J1に残ってより良い順位で終わるのが目標のチームだったので、どの試合も戦い方は少し守備的になる試合が多く、その中で自分の良さを出す難しさは感じながらやってました。しかしそれも理解した上での移籍だったので、いい経験だったかなと思います。
すごかった選手は?
日本人でいうと興梠慎三(こうろき・しんぞう)選手は本当にどのプレーもクオリティが高くて、どこでもプレイできて、ずっと本当に集中しないといけない選手ですね。
外国人選手も、あまり覚えてはいないですけど、たくさんいましたね。
J1の戦いにはすぐ慣れましたか?特に苦手なチーム、嫌だったチームはありますか?
別にチームで得意とか苦手とか思ったことはあまりないです。
ただ甲府の1年目に関しては、ちょっと違うポジションで試合に行ったりとか、なかなか難しい シーズンでしたけど、それも含めていい経験だったなとは思います。
ウィングバックで行ったりとか。スリーバックはどのチームでもやっていますけれど、ウィングバックっていうなかなかやったことないところで試合に出ることが何回かあって、なかなか難しいシーズンではありました。
2018-2020 ジュビロ磐田時代
当時のネット記事
「このタイミングで離れるのは悩みました」、甲府DF新里亮が磐田に完全移籍
【磐田】堂々のリーグ戦デビュー! 新里亮からうかがえた確かな自信「3バックならどこでもこなせる」
ジュビロ磐田への移籍の経緯は?
その時は名波さんが監督で、ずっと声を掛けてくれていたし、もうその「愛」を感じたんで(笑)すぐ行くのを決めました。
水戸に所属して、甲府に移籍した時もオファーをもらってたし、その後も試合で会うたびに声かけてくれていたし、対戦相手としてその時ジュビロもJ1にいたんで 、対戦相手の監督としてピッチで会っても、終わったらすごくアドバイスではないですけど、特に1年目の僕は悩んでというか難しい時期を過ごしてたこともあって 、そういうポジティブな言葉をかけてくれたし、その人と一緒にプレイしたいなと思ったのが一番大きいです。
今はもう名波さんともチームでもたくさん話させてもらったんで分かりますけど、人を惹きつける魅力が当時からあり、僕はその術中にハマっていたんだろうなと思います(笑)。
名波監督から学んだことは?
悪いところは悪いといつでもはっきり言ってくれますし、現役時代のプレーを僕らは知っているので、あれだけセンスがあって技術があっている選手が僕みたいな選手に対しても目線を合わせて話してくれるというのはすごい驚きでもありました。だからこそ自分の意見も伝えやすかったです。
具体的にはプレーで何が変わったかというのは難しいですけど、そういう人の接し方とか、いつでもフラットでいることとか、そうしたことは学んだと思います。
当時のジュビロ磐田の雰囲気はどうでしたか?
ジュビロに長く在籍しているベテラン選手がすごく多くて、その人たちが新加入の選手たちにもすごい入りやすい溶け込みやすい雰囲気を作ってくれたし、本当に若手からベテランまでみんな仲良いチームだったという印象がジュビロはすごく強いです。
当時のチームメイトはどなたがいましたか?
1年半、俊さん(中村俊輔選手)が移籍するまで一緒に してもらいました。ジュビロに長く在籍している選手と言うと、大井健太郎くん、山田大記、山本康裕、宮崎智彦、藤田義明、八くん(八田直樹選手:GK)もそう。
まあこれぐらいにしておきます。言い過ぎて残ってるといけないので(笑)。
当時のネット記事
2018年8月1日のガンバ戦で大怪我を負ってしまいましたね・・・
少し相手と競り合いながらとまでではないですが、飛んだあと少し相手を気にしながら片足で着地した時に重傷を負ってしまった、という怪我です。リハビリに関しては、手術をしてそのシーズンはもうプレーすることはできなかったのですが、次のシーズンの開幕を考えるとそれなりに時間は取れると分かっていたので、その予定に合わせてリハビリはしていました。
初めての大怪我でしたか?
そうですね。怪我で離脱ってことはそれまでほとんどしたことなかったので。手術自体もそれが初めてでしたし、自分のキャリアの中でも年齢的にも調子のいい時期でしたけど、自分も思っているよりは凹んでもなかったし、「すぐ回復してプレーできる」って自分の中では思ってました。
怪我は誰かのせいではなく、自分の準備、体もそうですし、気持ちも甘かったなと思っています。怪我したのも偶然じゃないと思うし、自分の準備の準備不足だと思っています。
後悔してないですけど、反省はしています。
その後ガンバ大阪に移籍しますが、移籍の経緯を教えてください。
また、重傷を負った試合の相手がガンバでしたが、何か関係がありますか?
怪我した試合相手だったことは全く関係ありません。
ジュビロはその年(2019年)監督が何回か変わり、結果スペイン監督になったんですけど、僕はそれでかなり出場機会をなくしていました。
もちろん「ジュビロで長くプレーしたい」という気持ちがあったので迷いましたが、ただその年齢・そのタイミングでやっぱり「試合に出ること」が一番自分の中で比重が大きかったというのもあります。
あとはJリーグで優勝を争うチームというか優勝しないといけない優勝が至上命題なチームでプレーしてみたいというのもありました。その条件にガンバはあっているし、オファーもあったので決めました。
(補注:2019年シーズン、ジュビロ磐田監督は名波→鈴木秀人→小林稔→スペイン人のフェルナンド・フペロ。1シーズンに4人目の監督が就任するのはクラブ史上最多)
2020 ガンバ大阪時代
当時のネット記事
磐田DF新里亮、G大阪に期限付き移籍「新しい環境でチャレンジしてきます」
ガンバ大阪のチームとしての雰囲気はどうでしたか?
チームの雰囲気とかはもちろんどのチームも違うのですが、やはり本当に「勝たなきゃいけない」「常に勝ってなきゃいけない」チームだと思うし、優勝しなきゃそのシーズンが失敗だったと言われるようなチームだと思うので、その中での緊張感とか選手同士の緊張感を含めて「さすがガンバだな」というのはありました。
ガンバの至宝・宇佐美貴史選手との交流
ガンバといえば宇佐美貴史選手ですが、宇佐美選手との交流はありますか?
そうですね。 当時から 仲良かったと僕は思ってますけど(笑)チームが変わってからもシーズンオフだったりそういう時は食事に行ったりするし、仲良いと思っている後輩というか友達というか、そんな感じではあります。シーズンオフには毎年というか移籍してからも大体会うので、僕はまだ(次のチームも)何も決まってない時ですけど食事は行きました。
元チェンマイ・ユナイテッド所属の小野悠斗さんの弟・小野裕二選手との交流
チェンマイ・ユナイテッドに所属した小野悠斗さんの弟・小野裕二選手との交流はありますか?
そうですね、裕二とも、ガンバ移籍する前から面識はありましたし(小野裕二選手は2020年にガンバでチームメイト)、裕二の家族とも食事したこともあるし、裕二も移籍してからも、何回かシーズンオフにあったりもしているので、今回ここに来ることが決まってからも、裕二のお兄さんがチェンマイ・ユナイテッドにいたことは直前まで知らなかったんですけど、共通の知り合いだったりとかから聞いて知ったので、裕二にも連絡はしました。
代表経験のある選手たちからの影響は?
それらの選手の影響で海外移籍を決めたのですか?
本当に運良くというかタイミング良く、いろんなチームで本当にいろんな選手、代表の経験もあるような選手ともやらせてもらいました。
ですが、そういう選手たちの移籍先というのは、ヨーロッパの主要リーグだったりとか、もう少しタイミングとしても、多分違う目的というか、少し方向性が違うのかなと思います。僕が海外を選んだのは、 またその選手たちとはまた違うベクトルなのかなと思います。
彼らがヨーロッパに行くのはプレーのトップレベルを求めて行っているはずだし、僕はJリーグの中でも代表にもなれなかったし、Jリーグのトップレベルをプレーしていけることができなかった中で、違う価値・サッカーをやっていく中で自分の中で違う価値観を求めて海外移籍を選択をしたので、こういう選手たちが 20代の頃にヨーロッパのトップレベルのリーグに行く移籍とは僕は全く違うのかなと思います。
新型コロナウイルスの影響は?
ガンバの時はもうちょうどコロナでした。Jリーグ自体も初めてのことだったし、リーグも一時中断してしまいましたし、その後の対応も探り探りというか、難しい対応が続いて、実際リーグ再開した中でも無観客で試合だったりとか、かなり雰囲気は違いました。
「たら・れば」ですが、コロナがなければもっと長くガンバにいられたとは思いますか?
それは別にコロナも何も関係ないですし、僕の実力不足だとは思います。
2021 V・ファーレン長崎時代
当時のネット記事
【トピックス】V・ファーレン長崎がCB新里亮とGK原田岳の加入を発表
長崎の人たちと「ともに」世界へ。 V・ファーレン長崎ならではのホームタウン活動:髙田春奈社長
2020年当時のV・ファーレン長崎の取り組みがわかる良記事です。
V・ファーレン長崎に移籍したのは、当時の吉田孝行監督(現・ヴィッセル神戸監督)からのオファーでしたか?
それはどの移籍もそうなんですけど、ここまで明確に誰がというのはないと思うし(補注:ジュビロの名波監督は例外)、もちろんその時の監督と強化部が相談もしていると思いますし、結果チームからオファーをもらったという形なので。
V・ファーレン長崎で得られたものは?
ガンバから長崎J2のチームに行くということは、それまでは自分のプレーを向上することだけというか、もちろん所属しているチームを勝たすことが一番なんですけど、自分のキャリアをすごく見てやってきました。
(長崎への移籍を決めた時は)自分の中でも限界も年齢的にも見えてきたし、またそこもJリーグの中ではありましたけど、自分の中でまた違う目的を持ってプレーしたいなと思った中で、いわゆる長崎みたいにまた新しいトライをしているチームの中に入って、「チームをJ1に上げる」とかチームがこれからJリーグの中で上を目指していく戦いの中に身を置いて、どんなことができるのか、もちろんピッチの中・外・両方含めて「自分が何ができるのか」っていうものを求めていました。
2022-2023 大宮アルディージャ時代
当時のネット記事
長崎DF新里亮が大宮に完全移籍「NACK5スタジアム大宮で皆さんに会えるのを楽しみにしています」
J3降格の大宮、共に2022年加入のDF新里亮、MF大橋尚志が退団
大宮アルディージャは、チームとしても苦しい状況でしたが、ご自身はいかがでしたか?
本当に僕が大宮に移籍してから所属していた2年間っていうのは、ほとんどの時間が難しい時間ではありましたけど、監督も僕が所属した中で2回・3人の監督かな?やってますしチームのなかなか勝ちがなかったので・・・。
自分のメンタルもそうですし、チーム、フィールド最年長だったっていうのもあるし、どうやって改善してみんなと同じ方向を向いて戦うのかっていうのは難しかったですけど、その中にもたくさんの学びはあった2年間だったかなと思っています。
具体的に学んだことは?
そういう状況のチーム、組織。 中にいて 見えるものだったり感じること、自分が何ができてできなかったのかということは、なかなか他にない経験だったかなと 思います。
現在の大宮サポーター、チームに一言お願いします。
(2024年7月末時点、23試合を消化・勝点53で首位を独走中)
所属した2年での成績っていうのはすごく悔しいし、申し訳なく思います。今もハイライトだったり試合を見ますけど、今の状況は調子もいいし、ただただファンとして応援しています。
2024 チェンマイ・ユナイテッド(初の海外移籍中)
主なネット記事
【タイリーグ2部】新里亮選手がチェンマイ・ユナイテッドFCに完全移籍で加入しました
昨季限りで大宮退団のDF新里亮がタイ2部のチェンマイ・ユナイテッドに加入、背番号「25」
チェンマイ・ユナイテッドでの目標や夢はありますか?
違う国に来ての環境や文化の違いは難しいこともありますけど、Jリーグで今までの時期とキャリアは全く気にしていません。
タイでは1年目だし、タイのリーグでのサッカーのことは何も知らないので、まだ本当に勉強していないといけないと思っています。
だから、そこでプレーしている選手たちから吸収することの方が多いのかなと思います。
若い選手も多いですけど、本当にこの国の文化も選手たちのパーソナルな文化も本当にリスペクトを持って接しています。
これからもプレーも、対戦相手の選手も含めて、また新しい自分のチャレンジとして、Jリーグでやってきたものが悪い意味で重荷にならないように、そこはすべてフラットに、また1年目の選手として学びながらプレーしていけばいいなと思います。
チェンマイに住む日本人の皆さんにメッセージをお願いします。
自分もサッカー以外の国の文化や生活にも興味があって、勉強したくてこっちに来たし、たまたま縁があって来た場所がチェンマイということで、サッカーを通じてここの人たちを盛り上げるというか、何か仲間意識を持って。 取り組めたらいいなと思っています。
たまに日本人っぽいなと街で見かけますけど、もしこれを見て僕を見かけた人がいたら、ぜひ話しかけてください。なんかこのチェンマイにいる日本人からいいムーブメントを起こせたらいいなと思います。よろしくお願いします。
インタビューを終えて
インタビューはチェンマイ・ユナイテッドの関係者も見守る中、取材場所を提供いただいた「虎鉄」の美味しい料理に舌鼓を打ち、リラックスした雰囲気で進められました。
特にジュビロ磐田時代の仲間たちの名前を出した場面では、懐かしそうにチームメイトを思い出す姿が印象的でした。
ベテランとなりチームを変えて戦っていく中で積み重ねた経験が、言葉の端々に窺い知れる場面がインタビュー後半では数多く出てきました。
その中で感じたのは、新里選手の「プロ意識」。どんな苦しい経験もすべて自分のものとして受け止め、糧にしてきた歩み。
その最後の舞台となるかもしれない、チェンマイ・ユナイテッドへの移籍。
「チェンマイ情報ステーション」では、新里亮選手が語った通り、現地在住日本人同士が力を合わせてなにかしらのムーブメントを起こせるのか、その様子を追いかけて参りたいと思います。